[小川もこの伝言板一覧に戻る] お名前:かえちゃんママ
地域:九州 こんにちは。はじめまして。かえちゃんママです。今日の臓器移植についてですが、私にも一言言わせいてください。 私は看護婦をしています。一番人の生死に関わっていますが、全く反応を示さない患者さんだけど、生きているんだと実感することがあります。それは温かいということです。生きているんだとシミジミ感じるんです。「この人は全く動かないけど生きているのに、死と宣告するのってひどい!」と思っていました。しかし、移植すれば治る患者さんがいることを目にしたら、ひどいとは言えないなとも思えるのです。 脳死状態って全く反射がなく、反応もないわけです。ただ、心臓が動いているだけ。こう言ってしまうのは申し訳ないのですが、実際にそうなのです。だからこそ、脳死と判断する人にはしっかりと間違いのない判断をしていただきたとおもいます。人の死を判断するって残酷です。 |
な〜 です
医師です。
言葉とは難しいもので脳死状態を心臓が動いているだけ
という書き方もあれば
「寝ているように反応が無いだけ」という書き方もあります。
実際脳以外の臓器は機能しているわけですから、
動いているのは心臓だけではありません、肝臓、腎臓、諸々の脳以外の全ての
臓器は生きています。だから移植できるのですが。
ここら辺も脳死というものに対する大きな誤解を生む文章です。
医療従事者にとっては言いたいことは解るけど。厳密に言うと
正確ではない、と言うことになります。だから医療の知識が
無い人にとって誤解が生じるかもしれません
別に攻撃しようとか揚げ足を取ろうとか言う思いではありません。
気を悪くされたらすいません。
な〜さん、一つ質問があります。
植物状態や安楽死について、どのようにお考えですか。
医師としてのお立場、何かお話をお聞かせいただけませんか、差し支えなければ。
本人によりコメントは削除されました。 2000年01月27日 09時34分36秒
な〜 です
>植物状態や安楽死について、どのようにお考えですか。
困ったな。なんと言えばいいでしょう。自分の中で確立された考えというものは
まだないですね。
私の仕事の中では在宅で患者さんを見ることも多いです。
時には最期を看取ることもあります。
どうしても人の死というものをその人個人の問題と言うより
家族の中でのその人の死が意味するもの、という目で見てしまいます。
安楽死を積極的に死を早める治療をすることと考えれば、現在
これを肯定することはなかなか出来ません。でも延命治療を
積極的に行わないと言うのであればすでにいくつもの医療機関で
行われています。
例えば食事が取れなくなった患者さんでもあえて点滴をしない、
と言うことは一般的常識になりつつあります。あくまで本人家族の
同意をえてですが。
そう言う意味では脳死臓器移植に限らず安楽死についても家族との
関係の中でケースバイケースで考えたいと思っています。
植物状態については意見を言えるほどの意見も持っておりません。
こんなものでだめですか。
あまり議論を紛糾させたくないのですが・・・・・・
私はCTスキャナのメンテナンスを8年やって来ました。
その中で、頭蓋骨陥没脳内ぐしゃぐしゃの患者の撮影に立ち会ったことがあります。
そのときDr.は、胸部を切開し、直接心臓を握り心臓マッサージを行っていました。
家族が病院に駆けつけ、家族が状況を認めるまでは、医師として治療行為を止めるわけには
いかないと。
奇麗事かもしれないです。
でも、私は脳死を人の死とは認めたくない。
シナプスの間の電気信号のモニタリングの状況で、すべての機能がダウンしたとは認めたくない。
すべての生体機能が停止して、後は腐敗の方向に体が転がりだしたときこそ「死」だと考えます。
こんなことを書くと、最近話題のミイラの人たちみたいに思われそうだなあ・・・・(^^;
な〜さんどうも。
あっ、その前に、かえちゃんママさん、こんにちは。スレッドにお邪魔しています。
私は医療従事者ではなく、一般の家族の立場で感じていることなのですが・・・
どこまでの医療を望んでいるのかという意味で、それは患者本人や家族の判断が第3者にまかせっきりで
いいのかなぁということ。
安楽死などについてお伺いしたのは、終末医療を必要とする際、本人がどのように望んでいるかを、あるいは、
家族がどんな気持ちかをあらかじめ意思確認できている必要があるのではないかという思いがあるからです。
仮に、明確に話し合えていたとしても、現場に遭遇したら、気は動転するでしょうね、多分。
しかし、考えることを放棄して、現場に遭遇した人任せ(特に医療従事者)で良いものかどうか。
脳死が人の死であるかどうか、それは定義上の問題だと感じています。
必ずしも、脳死=明確な人の死のボーダーライン である必要は、無いのではないかと思っています。
安楽死で逮捕された医師がいましたね。
現行法では逮捕なのかもしれない。しかし、その医師の周りで繰り広げられていた現実はどんなものだったのか。
想像の域を出ないので、良いことだったか悪いことだったかは判断できませんが。
現在の医療状況を思うとき「この状態になったら装置ははずして」という会話を時折、家族としています。
自分が看護する側になって装置だらけの親族の様子を眺めたり、看護に疲れた親族を見たり、そんな中での
一つの選択ですね。看る方も看られる方も何が幸せかわかんないねぇ・・・・と、うちの親は言います。
どんな状態であっても、そこに横たわっているだけでも、家族としては幸せなのだということもありますよね。
何年もその状態を続けている方もいますよね。
そして、そんな中から奇跡的に復活劇が、時として起こるとも聞きます。
脳死寸前の患者に施した低体温治療の成果もあると聞きます。
アメリカでは、亡くなった方の体液を完全に交換して、ピンク色の肌のまま、ベッドに横たえている映像を見ました。
私にはとてもなじめない光景ではありましたけれど・・・しかし、それも、選択の一つだとは思うんです。
ここから先が「死」ですよ・・・そもそもここに無理があるんじゃないのかなって思うんですよね。
すもどんの言うように、装置で調べられるのなら、きっとますます「死」のボーダーラインは遠くなるでしょうね。
今、計測できていない部分さえも計測できるようになるでしょう。
もっと、小さな単位も出てくるでしょう。
であれば、なおさら、いくつかの選択の余地があるということを認めて欲しいなって。
数値がゼロをさすまでのどれだけかの時間の中で、私の判断をさせて欲しい。
ギリギリまで、様々な治療法にかけるのもひとつ。脳死を受け入れて、最後のアクションを起こすのも一つ。
どれにもリスクはつきものだと思うんです。
臓器移植が完璧な医療でないことをどなたかがご指摘でしたが、他の医療行為もそうだと思うんですよね。
生きていく中で、どんな終わり方をするのかまだまだわかりません。
ただ、いくつかの可能性を想定して意思表示せざるを得ない社会環境なんじゃないかなぁ・・・
薬湯を飲ませて、お祈りをして、静かにその人の最期を看取るような時代劇の状況とは違うでしょうし。
そして、そう遠くない将来に移植医療も全く違う状況になっているんじゃないかなぁと。
たった今の判断を自分なりにしておく責任があるような気がしてなりません。
私医者やってます。
まさしく、サラさんがいわれているようなこと常日頃ひしひしと
感じています。
死の定義というと非常に生物学的になってきますが、
人生で考えれば終幕ですよね。
医療とは今までは生きるための方法であったけれども
人生の終幕のお手伝いという役目もあるのではないか
という気がしてます。
だからこそ、個人個人がもっと人生の終わらせ方っていうのを元気なうちに
考えておくのも必要なのかなと考えさせられます。
例えば”父はこういう状態になったら自然の状態にまかせてくれ色々なチューブなんか入れないでくれ”
と常日頃いってました。とうい風にいってもらえると私たちも非常に方針をたてやすいし
家族も患者の意志を尊重したんだという気持ちがもてて静かに終末をむかえて頂くことができるんですよね。
結局なくなられた方の気持ちを聞くことはできないので本当に本人のためになってたかどうかなんて
残された者の自己満足にすぎないのかもしれませんが、やはり残された者がいい形で個人の死をうけいれられるためには終末医療のありかたはもっと検討されるべきだと考えています。
脳死に関する法制定がされたわけですが
もう脳死だから死亡ですという死の宣告ではなく
脳死になったら死亡とみなして欲しいという本人、もしくは家族の意志を
尊重するための脳死判定であってほしいなと考えていたわけですが
いまは違う方向にいってますね。
脳死と臓器移植は切り放して考えられるべきだと私は考えています。
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