最初に言っておく、
>孤立無援、四面楚歌、とっても孤独な気分に陥ってしまったのは、どんな時でしたか?
>その時は、どうやって対処しましたか?
について書くと、中途半端なことはかけないので、
この文章は、か〜な〜り、長い。
まだ引っ張るが、滝田洋二郎監督がロマンポルノを卒業しての一般作品の一作目「コミック雑誌なんかいらない!」の元ネタ、頭脳警察の「コミック雑誌なんか要らない」を聴きながら、パンタつながりと、監督の高校の同級生つながりで、山田辰夫初主演作、 石井聰互監督の「狂い咲きサンダーロード」を「コミック雑誌なんかいらない!」と一緒に借りてきて久しぶりに見てみた。
敵役のオカマを演じる若き日の小林稔侍に右手と右足のつま先(=バイクのブレーキ操作に必須)を切り落とされ、撃たれてボロボロなのに、山田辰夫演じる"ジン"は最後の方、「バイク持ってきてくれ」というのである。笑いながら。
若いときはうっかりしていたが、これはつまり、シェークスピアの「リチャード3世」の「A horse!, A horse for my kingdom!」と一緒なのでは、と感じた。リチャード3世のそれは、一般には苦労して、どんな汚い手も厭わず手に入れたものが、たかが一頭の馬と引き換えになってしまう、そんなはかなさ表している、と思っていたものだが、どうやらそれだけではないのではないか、そんな風にも思っている。
孤独というもののうちでも、ある一定の種類のソレを感じている人、若い男に対しての言葉を何年か前から意識しているように思う。つまりは、若い日の自分に対して、今の俺はどんな言葉が吐けるのか?
どうにもままになりそうもない恋をしていると、ふと、自分が恋をすること自体犯罪なのではないか、と思う瞬間がある。このまま、感情の赴くままに行動すれば、本当に犯罪者になってしまわなければならないような状況。或いは、そういう自分の感情に対して距離を上手く取れるようになったときに感じるのは、恋に執着できなくなっている妙にあきらめのいい自分、そして、決して寂しいとか悲しいとかと言うことはないけれど、ひどい倦怠感に包まれてしまっていることに気づき、それ自体なにやらひどく息苦しい。
恋を挙げれば分かりやすいが、その他の人間関係、その他であっても構わない。
問題は、今更そんなことを口に出したところで、誰がそんな自分の愚痴を聞いてくれるというのか?、ということ。決定的な解法がないにも拘らず、ありふれているがために、殊、リアルで口に出すことを憚られる問題であり、それぞれが孤独な戦いを強いられる問題である。まぁ、教科書的な解法があったとしたら、それはそれで「気持ち悪い」とC.V.宮村優子で囁くのよ、私のゴーストが。
加藤智大に先を越されてしまったし、今更、二番煎じ、三番煎じの後追いなども出来はしない。そもそも、それでは何も解決していないわけであるし。あの事件は派遣労働の問題のように捉えられているけれど、ソレとは違ったもっと別の種の孤独に対して目を向けるべきではなかったか? それが出来ないところに現代の文化の薄っぺらさを感じるわけであるが、
どのオスにたいしてもメスをあてがうことで労働のモチベーションを与え労働力として社会に組み込むということで、近代というのは成立してきたが、逆に言えば、メスの意志というのは軽んじられていた。教育と発言権を女性に与えることで、逆に言えば、あてがわれない男性というのは、必ずでてくるわけであるが、そのことに対して、社会はあまりに無防備だ。
メスのあてがわれないオスというのは、社会にとって不安定要素なのである。それを、旧弊の上に胡坐をかいた「あてがわれた」オスにとっての脅威と成る、新しい技術、力、価値の創出につなげるというポジティブな事もあるけれど、多くの場合、加藤の事件のように社会全体とっての脅威となる。
そもそもポジティブな面であるはずの下克上を可能にする社会の仕組みのみはどんどんと隅に追いやられ、目立つのはどうしようもない閉塞感だけだ。そういう教育に今や多くの人が疑問を持たなくなった所為もある。
近代以前はどうであったか?
洋の東西を問わず、僧院というものがある。そこに若い男が集められ、名目上は禁欲生活を課せられる。これは、何だったのか?
特に日本の寺院ではどうであったか? 例えば、「タワケ!」という罵り言葉があるが、これは、かつて農地を今の民法的考えによって子供に等分することによって、それぞれ生活していくための閾値に達せず、結果、子供たち全員が共倒れになってしまう、つまり、この上なく愚かな行為を指していた。これで、どこかに婿入りできるならばともかくも、財産も嫁もあてがわれない農家の次男、三男を押し込めておく装置が社会の要請としてあったのだろう、と思われる。
ゴーダマ・シッダールタが彼の教団に迎え入れるものを当初は男性だけに限定していたが、身の回りの世話をする高弟のアーナンダにたしなめられて、後に女性の入信も認めたというエピソードをきいたことがある。悟りが必要なのは男性も女性も変わりないだろうないだろう、というわけだ。
そのようなアーナンダの言い分はもっともであるけれど、差し迫った問題として、シッダールタの考えの中には、男性ならではの問題、孤独が頭にあったのではあるまいか? まぁ、それにしたって、突き詰めれば男女の差はないのかもしれないが、自分という個体の死への恐怖と、自分のDNAを残せないかもしれないという恐怖。突き詰めれば孤独というのはこの二点に集約される。この二点を意識することがないぐらい普段の生活に特に支障がなければ、一人でいるということ自体は、実はそんなに大きな問題ではない。
それならば、とっとと相手を見つければいいじゃないか、というわけに行かなくないのが、近代以前の社会であり、これから先の社会ということになるだろう。理由は書かない。面倒くさいから。
個人の意識への処方としてのヒントが冒頭の「バイクを持ってきてくれ」であり、「A horse!, A horse for my kingdom!」なのではないか、と感じているのだ。とはいえ、あくまでイメージとして、ということで、さすがにガソリンを燃やして個々から走り去ることというのは、今日日、それ自体人類の敵なので、少々ためらわれることなのだが。
永平寺に昔いた坊さんのはなし。適当な言葉が見当たらないが、有態に言えば知恵遅れの農家の末っ子が出家"させられた"。難しい経本など読めるべくもなく、彼の師匠は、彼に厠の清掃のみを言いつけた。何十年も彼は厠の清掃のみをしたのだが、それにより彼は悟りを開き、高僧になった、という話を聞いたことがある。
一点突破の疾走感。それのみが孤独を救ってくれるのではあるまいか?
実に抽象的結論で、じゃぁ、現実はどうなのかというと、非常にキビシー!(財津一郎、またはC.V.杉田智和)なのだが、まぁ、今のところこれといった教本がない分全くといっていいほどのフリーハンドでいける、そんな気楽さがあるので、ソレを楽しめる感性があれば何とかなるんじゃない? というところで結んでおく。
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