永らくご無沙汰してしまったお詫びに、時折、この間の旅先の話をしましょう。
***
そんなに遠くないむかしむかし。
さる親分のお誘いで横浜で夕食をご馳走になった時の話。
麦田町の中華料理屋「奇珍」へ。大正七年創業の店。
親分のオーダーで揚げワンタンとサンマーメンを頼む。
「この店はいいんだけどさ、何か頼むと倍出て来んだよナ」
まず、材木のように太い煮込みメンマが山のように来た。
甘辛く煮付けてあり、黒コショウを振ってある。
ビール、いや、紹興酒があいそうであります。
これだけで腹一杯になりそうなイキオイ。
ついで揚げワンタン。
昔、親分が子供の頃、揚げワンタン用のワンタンを干していたのをつまみ食いして随分叱られた、という想いでのメニュー。このときのご主人は創業者。
さて、そしたら今度は車蝦と葱の醤油炒めがこれまた山のように来た。
つまりこういうことだ。メンマと蝦、これが大人の顔に捧げられたメニュー。親分も分かっていて、ちゃんと煎餅だのバレンタインのチョコだのを車に積んでいる。
「コレ、割れてるんだけど、割れてる方が高いっていう煎餅なのよ。でも、安いモンなのよ、食ってみな」と山ほど入った大袋を女主人に渡す。
さて、サンマーメンが来た。サンマーとはモヤシのことである。
この店に来たら「サンマーメン」を食べなければいけない。「いつもサンマーメンだと飽きるから食べる」のがラーメンでありチャーシューメンなのだ。
奇珍は大正から店を構える中国人経営の店であるが、初代は本牧の港のあたりに最初、店を構えたのだそうだ。しかし、中国人は海岸から1000米までの距離に住んではならないという政令が出たときに、海岸からちょうど1000米にあたる麦田町に店を移したとのこと。
このとき、店主が中華街を選ばなかった、というのがミソ。親分曰く
「中華街は、もともと苦力(クーリー)の溜まり場で、その連中のために屋台が集まったのが始まりだから、中国人の中には中華街を嫌がってたのもいるんだよ」
親分によれば戦前から戦後にかけての中華街は横浜の経済を裏で支えた一大ブラックマーケットエリアで、スラムに財貨が渦を巻くというダイナミックな場所だったのだそうで、普通の人は恐くて寄りつかない場所だった。そこでは為替からエアチケットまであらゆる闇取引がおこなわれていた。到底、現在の観光化された中華街からは想像できない場所だったのだそうだ。
そういう場所を避けて、日本人社会と接しながら中華料理を提供している店もある、というわけだ。
親分の講義は続く。
「だいたいサ、ヨコハマって所は、金持ちが少ないんだよ。貧乏人ばっかりの町なんだよ」
いきなりスゴい物言いをする。これぞハマの喋り方。
「だって、白系ロシア人難民とかチャイニーズポーチュギーズ(マカオから来たポルトガル人と中国人のハーフ)とか、中国人とか、みんなヨコハマに逃げ延びて来たんだもの。日本人だって、みんなどこからかやってきた連中さ。もともとの横浜の人間なんてほとんど居ない。みんなここで腰掛けて、いずれアメリカにでも行こうと思ってるわけだ。横浜についていろんなイメージがあるかもしれないけど、実はそんな町なんだナ。いい街だろ?」
フローが活発に動いている時は勢いがあるが、ストックの精神がないから経済が停滞すると、すぐに枯れ始める、というわけだ。
「横浜という町はとにかくカネのことでもなんでもストレートに話すからね、どこで会ってもすぐわかるよ。芸能界なんかではそういうのはタブーみたいなもんだから、随分嫌われるんだ。生意気だって言って。それに、何十カ国から、それぞれ生き方も文化も全く違う連中が逃げ延びて暮らしてきたから、互いに干渉するってことがない。みんなそれぞれの方法で好きにやれ、って風土ができたんだな」
独特の乾いた風土の由来。
「ま、観光イメージの横浜と現実は随分違うってことさ。
でも・・・・最高だろ?」
***
最後の一言でグッと好きになりました。
ではまた。
|