下関歯科技工専門学校 山口県雲丹製造工業協同組合 駐日本釜山貿易投資事務所


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投稿番号:101180  投稿日:2002年08月06日 02時15分36秒 パスワード
お名前:小川もこ
URL=http://djmoko.com/
8/8テーマ「戦いについて思うこと」

キーワード:戦時中食べる苦労 負傷の痛み 愛する人と離ればなれになる、、愛別離苦
地域 :関東

 さぁ 8月第2週は 8が二つ。末広がりの目出度さかしらん。来週から3週 出前アヴェニューが続きます。
だから、こうやってテーマを決めて 通常アヴェニューで語り合うのも あと、、、何回かなぁ。
と感傷に浸ってる場合じゃない!
今回は こんなお題にしてみました。

「戦いについて思うこと」

8月は やはり終戦記念日があることもあって、この話は避けて通れない、、と 過去何回か 戦争をテーマに取り上げてきましたが、今回は もうちょっと広く、「戦い」のエピソードを 募ってみようと思います。
スポーツの戦い、嫁姑、夫婦、兄弟、恋人同士、友人等の人間関係の戦い、クラス、校内での戦い、受験戦争、交通戦争、就職戦線、選挙戦、紅白歌合戦、、、と 実に戦いは さまざま。
人は どんな時に 戦うのでしょうか。

どんなエピソードでも結構です。

 でも、実は いちばん伺いたいのは、親、親戚、祖父母から聞いた 実際の戦争体験の話です。
 1945年、昭和20年 8月15日 太平洋戦争(第2次世界大戦)終戦。
戦後57年。過半数の日本人が 戦後生まれとなってきた今、戦争の記憶は どんどん風化してきています。
平和ボケ、、と諸外国から揶揄される由縁です。
実際に どんな状況下で、どんなことが行われてきたのか、身近な人の言葉で 少しでも確かめることができたなら、同じ轍を踏まずにすむのでしょうか。
この哀しい歴史を繰り返さないように 戦争の記憶を 次の世代に伝えていく責任が 今を生きる私達には あるのかもしれません。

 おばあちゃんが こう言ってた。。。伯父さんが こう話してくれた。。。父が問わず語りに教えてくれた。。。
どんな内容でも ありがたいです。もしも、あ、、、聞いたことがなかった、、というかた、よろしかったら、木曜日までに 戦争体験者から聞いてみてください。
 今の自分が もし、その時代に生きていたなら、、など 聞いた内容から あなたが感じたことも、率直に書き込んでみてくださいね。

それでは あなたのご参加、心から お待ちしています。

なお、1時台のゲストは 久々♪ アルフィーの桜井 賢さんです。
桜井さんへの 質問・メッセージも よろしくね。

[1]ドンドンクジラさんからのコメント(2002年08月06日 09時04分42秒 )
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「戦いについて思うこと」

昔、高校の英語の先生が授業中にしてくれたお話です。
その先生は海軍見習い士官として「駆逐艦」に乗り「戦艦武蔵」と共に
レイテ湾突入作戦に参加されたそうでした。
激しい戦いで「武蔵」は先生達の目の前で沈没、ご自身が乗っていた船も
敵の攻撃を受け被弾炎上・・・・・・
気が付けば、足元は水浸し 浸水だ!! と足元に目をやれば・・・・
それは、味方将兵の流した夥しい『血』で真っ赤にに染まっていたそうです。
戦闘の最中、傾き炎上する船の上で、先生は極限状態の中「退艦命令」を
待っていたそうですが、中々「退艦命令」は降りず迷っていたそうです。
そのとき、一人の同僚が先生を促してくれたので「退艦命令」を待たずに
一緒に海に飛び込んだそうなのです。
水の冷たさに少しは冷静さを取り戻した先生は、その時思い出したのです。
一緒に海に飛び込んだ同僚が、水兵なのに泳ぎが苦手だった事を・・・・・
辺りを見渡した時・・・同僚の姿はもう何処にも無かったそうです。
さらに先生は、救出に来た味方の船が投げてくれたロープを掴み損ねたそうです。「もう、これまでか」先生はそう思ったそうです。
しかし!味方の船はもう一度ロープを先生に投げてくれたのです。

あの時、どういう経緯でそんな話を私達にしてくれたのかは、思い出せませんが
今でも良く覚えています。
「まわりの人達のお陰で、自分は命を助けて貰った。だから教師になったのだ」とも仰いました。
卒業後、知ったのですが先生は英語の他に「エスペラント語」も習得されていたそうです。
「世界中の色々な人達と話し合いたい。お互いに理解しあいたい。それが平和への第一歩だから」と・・・

他にも親友のお父さんは、戦車隊の中隊長として「シンガポール攻略」作戦に従事したとか、釣り馬鹿だった親友のお父さんは、釣った魚を開いて干物に加工し
それを戦車にぶら下げて「シンガポール」まで進軍したそうな・・・・
浜ちゃん・スーさんも真っ青ですよねぇ〜〜!
その釣り馬鹿お父さんも、途中で「マラリア」に冒された為に終戦を内地で迎え
命拾いをしたそうです。
また、中国戦線に出征した、大学時代の先輩のお父さんは、銃の腕を見込まれ
「狙撃兵」だったそうです。先輩が「南京大虐殺」について聞いたところ
「あの状況下では仕方なかった!」「もう、それ以上聞いてくれるな!」と
とても悲しい目をして黙ってしまわれたそうです。

戦争という極限状況の中ではそれこそ、その人の人間性が露になるのでしょうね。
泳げないのに、一緒に海に飛び込んでくれた人・・・・
一度だけ!と決められていたロープを二度も投げてくれた人・・・
何時、何処で死ぬかもしれぬのに、生き抜くために明日のオカズを自分で作る人
(単に、ノー天気なだけの食いしん坊ちゅう人もいたらしいが・・・)

もし、あの時代に自分が生きていたら・・・・・
体格だけは、人並み以上だけど運動オンチだから徴兵検査は落とされるだろうなぁ
間違って受かっても万年二等兵だろうなぁ〜〜!
当然、ドンクサイから真っ先に敵の弾に当たり手柄もたてずに死ぬでしょう・・(泣)















[2]上田のカリメロさんからのコメント(2002年08月06日 10時02分38秒 )
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苦しい思い出ではないのですが、いいでしょうか?
私の祖父はロシアの方に行ったらしいのですが、根っからの芸達者だったようで、そこでの演芸会の様子が写真に残っていました。
もう亡くなってしまっているので、思い出話は聞けなかったのですが、ロシアの娘さんという裏書きのある写真もありました。

また父の叔父も当時珍しく英語が話せたので通訳として重宝がられ、あの戦争時代に食べ物に困ったことはなく、逆に太って帰ってきたらしいです。

悲惨な戦争の中でも、映画などをみるとアメリカなどの軍隊がいかに自由であったか、日本のそれとは全く違うんだなあと感じます。

[3]泣き虫とすさんからのコメント(2002年08月06日 21時30分56秒 )
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 チャットで南京に住む中国人の方と知り合いになりました。
 そこでふと考えたのですが、私たちの世代は南京での出来事を何も教わっていない。何も知らない・・・・・・・・・・
 この友人と知り合って、改めてあのときのことを調べてみようと思っている次第です。

 なお、私の伯父は特攻隊で戦死しました。戦友だった親戚の方は、8月16日が出撃予定とのことで、命拾いしたそうです。
 今でもあの当時のこと、伯父のことなど話してくれます。

[4]飲んべのニャンタロウさんからのコメント(2002年08月06日 21時50分21秒 )
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母の話しによれば 母の生家のそばに檜山飛行所というものがあり 格納庫がたくさんあったそうです。
敵軍の空襲を恐れ 小学校に入ったばかりの母は 他の兄弟とともに 親戚の家に疎開したそうです。
檜山は 街の中心部の能代と米代川をはさみ橋がかかっており 攻め入られる事を考え 橋を落とした事もあるとか。
私が映画などでみた風景。。。もんぺ姿の人たちがバケツリレーをしたり 竹槍での攻撃練習も 親たちがやっているのを見たのだそうです。
母は そんなんで倒せるはずないのにねと 笑って語りますが 当時の親たちは 子供。。。家族を守る為 必死だった事でしょう。
終戦の前日 昭和20年8月14日の夕方 日本で最後の空襲 土崎空襲がありました。
空が真っ赤に焼け 母は能代が空襲にあったと思い途方にくれたそうです。
実際は もっと離れた土崎での空襲だったのですが 小学校に入ったばかりの母にわかるわけもなく とても悲しかったのだそうです。
私には笑顔で語る母のホントのところはわからないし 半世紀いじょう経って ただの思い出になってるのかもしれない。
でも もしあの日 檜山の飛行場を狙っての空襲があったなら 隣接する能代が空襲にあっていたなら 今の私は存在しないのかもしれないと思うと ぞっとします。

人間には 許す心ってのがありますよね。
報復に継ぐ報復 それは確かに人間にしか行えない事だと思います。
でもきっと 理想なんだっても思う部分もあるけど 許す事もできるはず。
人間は そんな弱い生き物ではないもの 乗り越える術は持ってるはず。
それを信じて 世界は絶対平和になるんだって信じていきたいって思います。

毎日目にする傷害や殺人事件の多さ 人間の心は弱くなっているんでしょうか?

[5]みーつけたっ!さんからのコメント(2002年08月06日 23時13分55秒 )
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もこさん、こんにちは!

「戦いについて思うこと」

母からの話ですが(ちなみに母は'45年生まれです)祖母が富山の大空襲を見た時に「えらく真っ赤やなぁ」とつぶやいていたそうです、でも実際は焼け野が原。父から聞いた話では祖父は群馬の軍需工場で働いていたそうです。徴兵で出ていた時は中国東北部にも行ってたとのことです。

あまり僕の両親、そして祖父母は戦争のことを多くは語りません。
でもかつての母の実家には仏間に天皇・皇后両陛下の写真が飾られてありました。(もちろん昭和天皇の)

最近、思うことについて書かせてください。
広島の「原爆の子の像」に千羽鶴が供えられていますが最近、「燃えない千羽鶴」が登場したこと、とても心に残っています。以前何者かによって折り紙での鶴が燃やされた後で京都の板金工の青年部の方々が銅・錫・真鍮で燃えない折り鶴を作ったと以前ニュースで言ってました。

その青年の方々の平和への思い、燃やしたライターよりも熱いと思います。
そして、非核への願いはみんな同じです!

[6]はとむぎばっとさんからのコメント(2002年08月07日 00時07分40秒 )
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祖母は「戦争の話はしたくない!!」と言って、戦争の話は一切しませんでした。
その祖母が、ある日、昭和20年3月の郡山空襲の話をしました。
郡山駅のそばにある化学工場を目がけての空襲。
赤ちゃんだった母を背負い、叔父、叔母の手を引いて防空壕に入ると、
遠くから子供の泣き声が・・・
外を見ると、父親が爆弾の破片にやられ、その傍らで子供が泣いていたそうです。
「そこを動くんじゃない」と祖母は叫んで、防空壕を飛び出し、
焼夷弾の雨の中、その子供を防空壕に連れてきました。
お陰でその子供は助かったそうです。
話の最後に「今ならば表彰もんだね」と言って笑った祖母。
その翌年に他界しました。
これが、祖母の話した最初で最後の戦争の話です。
丁度、20年前に聞いた話ですが、
子供心にもその時の緊迫した雰囲気は、強く印象に残りました。
これは、「二度と戦争を起こしてはならない」という祖母の最後のメッセージ
だったのでしょうか。

[7]鳥取の先輩さんからのコメント(2002年08月07日 00時43分35秒 )
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将棋は取った駒をまたつかえるが、チェスは取ったら使えない。兵隊さんは占領したら自分のものになる陣取り合戦か、はたまた民族戦争のように遺伝子のかけらも残らないまで皆殺しにするか、戦争でもいろいろあるんでしょうね。
 母が終戦の時「私ががんばらなかったから戦争に負けたんだ」と本当にそう思い涙したそうです、最近きいたんですが。そんな教育されていたんですね、教育というより「洗脳」ですね、片道分の燃料つんで飛び立つ飛行機、魚雷を自分で運転していく、穴を掘って戦車の弱点の底に爆弾を仕掛ける、なんでそんなことができたのでしょう。
 今の自爆テロも「洗脳」でしょう、宗教とはとても思えません。がしかし、いまの日本の現状を鑑み、はたしてこのままでよいのかと大上段にかまえるとモコさん、日本でも徴兵を実施し18才くらいから2年くらい厳しく強制的に鍛えるなんてことが必要じゃないかと私は遠くその年齢を過ぎているので気楽に言います。
 戦争に備えると言ういみではなく、日本という国のことを考えると言う意味の時間を持つべきじゃないでしょか。永世中立国「スイス」も軍隊はありますよねたしか?
 話変わりますが、モコさん「円満卒業ですかひょっとして」よもや「できちゃった卒業」ではないでしょうね、おめでとう、元気な赤ちゃん生んでね。

[8]細川 英治さんからのコメント(2002年08月07日 06時18分21秒 )
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失礼ながら鳥取の先輩様
>永世中立国「スイス」も軍隊はありますよねたしか?
多くのかたが誤解している所があるみたいなので
「永世中立」って別に戦争を放棄しているとか、軍隊を持たないとか、安全であるとか、そうゆうことではございません。字面の通り世界の国々に対して「中立」の立場でいるということであって、軍事同盟などに参加して一定の勢力には入らないということでっせ。
当然、有事の際は自国の軍事力しか頼るものがないのですから基本的に国民皆兵です。普通の家の床下には自動小銃、機関砲、ロケット砲が有ったりします。当然、年間何日という風に軍事訓練もやるはずです。んで、24時間以内に何万人、48時間以内に何十万人という風に軍隊に動員できる体制になってます。それくらいの体制と覚悟でのぞまないと「永世中立」とうのは維持できないということなんでしょう。

んで、当時小さかった父が「戦争」で思い出すのは「空腹」だそうです。育ち盛りのときだったので尚更だったのでしょう。寝転がっていて食べないんじゃなくて、畑仕事や勤労奉仕をしながら尚かつ食べるものが少なかったと今でも言ってますね。よく町内の犬が突然になくなったとか、野良犬自体が殆どいなかったという話をします。
はっきり言いませんが「赤」が一番美味いのだそうです。(きゃい〜ん)
当然、現在の「ダイエットブーム」には???でして呆れるやらまったく理解不能だそうです。
PS父上様、申し訳もございませぬ。そういうアナタの不肖の息子、意気込みだけですがホント意気込みだけですが「ダイエット」頑張っておりまする。(笑い)

[9]とどおやじさんからのコメント(2002年08月07日 06時38分00秒 )
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 お邪魔しますよ。 戦争ってものは、悲しいものでありまして それにしても何故無くならないものなのか。 
 昨年 旅立った親父は、18歳で予科練に入りその後特殊潜航艇部隊へ。 二人乗りの魚雷2本を持った甲標的、海竜という潜航艇に乗り込んでいました。 後ほど生まれた人間魚雷回天と同じく、一端出撃すれば まずは帰ることの無い部隊です。
 日々は訓練の明け暮れですが、横須賀の部隊にいた頃は、敵艦載機の機銃掃射にも遭ったそうです。 その時叫んだ言葉が おかあちゃん だったそうです。周りの戦友も おかあちゃんと言いながら亡くなった方もいたそうです。 死を目の前にした時にでる名まえは、最も身近な人だと。
 その親父のすぐ上の兄は、新婚間も無く 輸送船でフィリピンの戦地に向かっているときに潜水艦に沈められ 戦死されました。 残された奥さんは、戦後 改めて再婚されたそうです。 日本の場合 戦争の苦しみを味わった方々は、もはやお年を召された方々だけになりましたね。 先人の苦しみにより平和になれた事を 感謝。 

[10]すもつく れんさんからのコメント(2002年08月07日 08時05分25秒 )
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人間はどうやったら争わずにいられるか・・・・・
例えば九州の私は、会ったことも関わった事も無い北海道の一個人と
いきなり喧嘩になる事はありません。
それは多分お互いの存在を知らない為、無関心で居られるからと思うのです。
ところがその方が、間接的であれ私の居に沿わぬ存在であれば
争いの種は生まれます。
具体的に行為を伴わなくとも、種は種として存在するので
何かのきっかけで芽吹いてくる可能性が出来ます。

皆さんは子供を叱りますか?
うちは毎日のように息子を叱ります。仕方ないまだ2才。
親が叱ってでも躾けて行かねば・・・・・。
でも、もしあの幼児の行動様式が、常識である世界があれば、息子は叱られる
必要なんて無いのですよね。でも、彼にはまだ大人の「常識」が理解出来ない
私は彼の世界観が理解できない。だから叱る。
でも、彼の世界観のほうが本当は正しく、私は間違ったことを躾けてるのかも

戦いをなくには、無視と無関心が最善の方法なのでしょうか。
でも、人は人とのかかわりを無くして生きていけない。
文化が違えば常識が違うのだから、話し合いで解決なんて無理でしょう。
対戦中の日本人がそうではなかったでしょうか?
でも、戦いは無くして行かねばならない。

私は自分で平和主義者の非戦論者だと思っています。
だけどフライトシュミレーターでゼロ戦を飛ばし、米軍機を撃墜することに
夢中になれます。戦艦大和が沈んだ事を残念に思い、実物を一度見たいと
思います。原爆資料館に行けば、米軍の行為に腹が立ちます。
そして、自分の考えで「おかしい」と思えば噛み付きます。

そこで私の本題。
申し訳ないが「鳥取の先輩」様。もこさんの大学時代の先輩で、多分
プライベートでのお付き合いも有るのでしょうが、もこさんが現在妊娠中と
取れるような発言をここですべきでしょうか?
事実なら、別スレ立ち上げてお祝いすべきだし、もしもジョークとして
書いたとしても正直下品です。
私ごときがとやかく申し上げる事ではないかも知れませんが、昨夜見て
一晩考えてやはり不愉快と感じたので書かせていただきました。
書くことに至った私の考えは前振りのFAXテーマの通りであります。

はあ、こりゃ完全に私もアメリ化した「ブッ種ほんとにお前が正義なの?目
うるさ科大きなお世話」ですな。
報復や抗議はメールか、別スレでのみ受け付けます。

[11]エス・オーさんからのコメント(2002年08月07日 09時11分53秒 )
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子供達がそこそこの年齢になったら、広島、長崎へ旅行する。
まだ、上の子が生まれたばかりの頃から女房と話していた事です。
「そろそろ、いい頃かな」そんな話をしていた昨日。
NHKで「原爆の絵」というスペシャルを放送していました。
投下直後の状況を語るものは爆心地から2.3km離れた地点で撮影された写真が3枚のみ
もちろん映像などは残っていない。
当時の惨状を伝えるのは被爆者が描いた絵のみ・・・
その絵を後世に伝える為にデータベース化が行われているそうです。

番組では、絵を描いた方の語りと共に絵を紹介していました。

学校の瓦礫の下敷きになり助けを求める子供を、火事嵐が迫る中助ける事が出来なかった思い。

自宅付近で幼子を庇うようにして倒れていた女性を「自分の母」と直感しながらも
確かめる事に躊躇し、彷徨い戻った時にはすでに消えていた(回収されていた)無念。

爆心地付近に学徒動員で行っていた娘を自分も重傷を負った為に助けに行けず
後にその付近を描いた絵によって娘の最後を知った母。

熱さの為に川に救いを求め、そのまま息絶えたおびただしい数の人。
狭い防火水槽に水を求める何人もの人・・・そして死。


戦争の実体験を語ってくれる人の居ない我が子供達、そして私自身のために
いつもは子供達の寝る時間ですが一緒に見ました。
娘は目にいっぱいの涙を溜めながら食い入るように見つめていました。

[12]とっちーさんからのコメント(2002年08月07日 09時34分25秒 )
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うちのじいちゃん 近所の人に「万歳 万歳」と送り出されました。
しかし戦争が終わって シベリアから帰ってきたら スパイ扱い・・・
この頃から隣組 町内会の組織が固まり始めたそうですね。
つまり近所の人から監視される立場になったのです。

話は変わって 今話題の住民基本台帳ネットワークですが 個人情報の
流出が問題になってますが 正直 個人情報漏れて困る人って有名人や
金持ちだけで 一般人は いまさら どうのこうのと言う問題ではないと
とも思うのです。
 隣に住む人も 誰か判らない 家族と挨拶も交わさない こんな時代
隣組や町内会のシステムに変わり住基ネットは新しい絆になるかも知れません。
数字を入れたら 確認できる のたれ死に防止には役立のではないでしょうか
また大きな病院は この春から電子カルテになりました。こんな情報も
ネットワークに組み込めば 旅先で倒れた場合 どんな持病が有る患者か
すぐ判り医療面から見ると 有効利用できるシステムと思います。

 しかし 東京都知事が賛成されているとニュースで見た となると
少々不安である 自衛隊が海外に行けるようになるなど この手のシステム
は拡大解釈される恐れも有り 「15歳から25歳までの健康な男子」と
検索すれば 即座に召集令状に変わる こんなシステムにも変貌することは
頭に入れて置いた方がいいかもしれませんね。

 どうか 戦いの小道具にだけは してほしくないと思う 今日この頃です。 

[13]ぺーさんからのコメント(2002年08月07日 10時11分47秒 )
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私が住む町は、原子爆弾投下時刻には町内一斉にサイレンが鳴り響きます。
私達は自然と手を合わせて、犠牲になられた方々のご冥福をお祈りします。
それは、小さい頃から繰り返し繰り返し、戦争の恐怖、悲惨さ、そして愚かさを教えられたからこそでしょう。
(だからこそ、幼い頃からの教育が恐ろしい場合もあるのですが)

我が家は長崎市内から50キロほど離れています。
しかし、原爆投下直後は、被爆して重篤な人達が市内での満足な治療を受けられずに次々と列車で運ばれ、各駅で一人二人と下ろされて、そこで見ず知らずの被災者を婦人会中心となって介抱したと聞きました。
それはそれは、凄まじい姿だったそうです。

ウチの近くでも数人ほど下ろされ、小学校の空き教室で介抱されたそうですが、お一人だけが助かられたそうです。
のちに、お礼にと再来されたそうですが、その後もしかしたら後遺症が出られたかもしれません。
目に見えない打撃を受けて、時間が経過して後に身体を蝕まれる・・・それが原爆の恐ろしさでもあるのです。
また、風評や差別に偏見・・・そんなものにも耐えて行き抜かれた被災者の方々なのです。

戦争は、ごく普通に生活しているの人間を、狂気に変えます。
誰だって死にたくない、そこに攻撃と反撃とが繰り返されてしまうのでしょう。

昨日、このテーマが頭から離れなかった所為か、本を2冊買ってきました。
先の大戦で戦犯となった日本人の遺書を綴りリポートしたものと、緒方貞子さんを書いた本です。
どちらも戦争紛争に深く関っていて、しかも時代が大きく変革する時を双方が全く違った方向へと歩まれた人、ひと、ひと・・・・
読むのはまだこれからです。冷静に読みたいと思っています。

[14]ち母さんからのコメント(2002年08月07日 11時47分54秒 )
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戦い・・・
皆さんが戦争の事を書いておられるので、違う話を・・・
ちなみに、アニメの戦争物だけは、必ず子供に見せます。こういう事が、かつて、この国であったという事を教えるためにも・・・
もう、2度と起こしてはならないものだ!という事をわかって欲しいので・・・

話変えまして、今日のテーマ「戦い」ですよね。
我が家の子たちは、毎日あるいは週3回、戦っています。相手ですか?はい、あの、夏はくさーいので滅茶苦茶、有名?な剣道とです。
私は、夏の剣道を自己発電サウナマシンと呼んでおります。

ただでさえ、暑い夏。日中、ひとけが無く、締め切られた体育館。これだけでも汗が…
そこに完全武装?した子供達。武装だけならまだ我慢もできるでしょうけど、稽古が入るのでもう、1時間半の稽古終了後の子供達は、ベトベトのダラダラ。
特に小手が汗で…(ご存知でない方は、経験者の方にお聞きください。私の口からはとても、あのにおい?は語れません(爆)

でも、絶対に休ませませよ。どんなに暑くて大変でも。
武道は、一種、己との戦いの場でもあるんですもの。
がんばれ!暑い夏はもうじき、終わるぞ〜。
今度は、足が冷たい冬が待ってるけどね(大爆)

[15]エス・オーさんからのコメント(2002年08月07日 13時06分30秒 )
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戦争ではない戦い

知事失職に伴う知事選が9/1投票に向けて、熱い戦いを繰り広げています。
圧倒的な人気を継続出来るのか?・・・田中陣営

何処から現れて来たのか、いつの間にか候補乱立となり
活況を呈しそうな予感です。
田中知事を不信任した保守系はおおっぴらな推薦は命取りになると判断しての
沈黙の構え・・・でも、応援する候補をニュースで報道されてしまい焦る。

さて、勝敗やいかに?
我々県民は上司だ取引先だ親戚だ・・・と、しがらみで投票するのではなく
個人個人が判断をして投票することが、これからの県政には必要な事。

全国区となってしまった、お家騒動・・・汚名返上は我々県民自身の手で。

[16]留チチさんからのコメント(2002年08月07日 13時33分08秒 )
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戦いと言えば 本日8月8日から高校野球の熱い戦いが始まって
おりますが 昼アヴェでも おなじみ我那覇美奈(字こんなだっけ?)
さんの弟さんが鹿児島県代表 樟南高校で甲子園に出場されている
そうですなっ ご健闘お祈りします!

[17]ドンドンクジラさんからのコメント(2002年08月07日 15時21分50秒 )
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高校野球は今まさに熱闘が始まろうとしてるのに・・・・・・
プロ野球の方は「セ」「パ」両リーグともペナント・レースの灯が消えようとしている。
我が愛しのホークスも、遂に借金生活に陥る始末。
ア〜 ○イエー・グループ内唯一の優良株だった筈なのに・・・
8月6日遂に自力優勝が消滅したぁ〜〜(号泣)
まぁ〜 タイガースの方は毎年恒例の夏の「死のロード」で落ちるだろうな。とは
思っていたけれど・・・・
でも、少しは期待してたのになぁ〜〜!ホークス対タイガースの「西日本シリーズ」

[18]はのすけさんからのコメント(2002年08月07日 15時24分59秒 )
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今年86才のうちの父親は戦時中に人を一人殺したことがあるそうです。
インドネシアのある島で捕虜のオーストラリア兵が逃げ出したので
追いかけて行って脇腹を銃剣で刺したらしいです。
そんな事を小学生の時に聞いて、私はやはりショックでした。
人を殺すこと…、戦争だから仕方はないとは思いながらも
身近な人間、しかも父親が、となると幼心にも何だかやるせない気持ち
になってしまったことを思い出しました。

相手を殺さなければ自分が殺されてしまうという阿鼻叫喚の世界が戦争
なんだと改めて思います。
殺されたオーストラリアの人にももちろん家族がいたことでしょうし、
残された家族の悲しみはいくばかりかと思われますが、父親自身も人を殺めて
しまったという理不尽な事実を背負って生涯生きて来たんですね。

父親が最近嘆いていること、、それは「戦友会」の出席者が少なくなってきたこと。
本人はかくしゃくとしているんですが、確かに80も半ばを過ぎると亡くなられた方や
病気で来られなくなった方が多くなったのはしょうがないことなんでしょうけど。

こうして、だんだんと戦争体験者がいなくなって風化してしまうんでしょうね。

[19]ハッシーさんからのコメント(2002年08月07日 19時45分23秒 )
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 「戦争を知らない子供達」
って言う歌詞の歌がありますが、僕の世代(今年で30歳)はまさにそう。
 高度成長とバブル経済まっさかりに青春時代を過ごした僕ら。戦時中の苦しい思いや「ひもじい体験」をリアリティーを持って聞くことはできませんでした。
 そして、大人も、「物にあふれた」、「笑っちゃうほど儲かった」、「この幸せが永遠に続くように感じた」、そんな時代に、過去の苦(にが)い歴史を子供に聞かせるのは「ナンセンス」と思っていたように感じます。

 僕の中で戦争と言えば、アニメの「ガンダム」、映画の「プラトーン」「ランボー」。新しいところでは、「プライベート・ライアン」。
 それらは、悲劇の中にも、ヒーローが華々しく活躍する、娯楽性の高い物。一時の非現実体験でしかありません。

 感覚の麻痺した僕と関係なく、時代は常に動いています。自衛隊も海外に行くようになった。憲法9条も改正が議論されている。核武装についてコメントして非難された官房長官もでてきた。

 自分は、健康で楽しく生きていたい。そして、自分の周りにいる人もそうであって欲しい。僕には子供はいないけど、生まれてきたのなら、「子供が死ぬことは、自分が死ぬこと以上に苦しいだろうと思う。」
 
 だから、戦争はない方がいい。ただ単純に、戦争はない方がいい。

[20]原平太。さんからのコメント(2002年08月07日 21時55分16秒 )
本人によりコメントは削除されました。 2002年08月07日 21時59分43秒

[21]原平太。さんからのコメント(2002年08月07日 22時05分23秒 )
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昭和6年生まれの亡き父も10年生まれの母も戦争についてはほとんど語りませんでした。ただ、拙者がアマチュア無線のモールス信号の勉強をしていた頃、母がアイウエオのモールス信号をすらすらっと口にしていたのにはびっくりしました。聞けば子供の時に通信部隊としての教育をそのころ受けていたそうで・・・

この時期になると拙者がよく聴くのは、我が師 浜田省吾の「A NEW STYLE WAR」という曲。

♪地下から地下へ運ばれた爆発物(ボム)
 国家に養われたテロリスト
 成層圏に軍事衛星(ミリタリー・サテライト)
 It's A NEW STYLE WAR

[22]いのさんさんからのコメント(2002年08月07日 22時21分38秒 )
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仕事柄いろんな方とお話をさせて頂く機会が多いのですが、
その中で、特に戦友会の打ち合わせに来られる方のお話には
思わず涙が出てしまいます。
年齢は70代後半から80代の方が多いのですが、皆さんに共通している事は、
元気で、明るく、情熱的でいらっしゃいます。
中には電車やバスを乗り継いでお越しになる方や、自転車で1時間以上かけてお越しになる方もいらっしゃいます。

僕が戦争当時の事をお聞きすると、色々な話を聞かせてくださいます。
航空隊にいた人は、大抵訓練期間中に終戦を迎えた方が多いようです。
「実戦で出撃した人は?」と尋ねると、
「出撃していたら私もここにはいませんよ。あと一ヶ月終戦が遅れたら私も、、、
でも、出撃の日は決まっていたので覚悟はしてましたよ。」
ある陸上部隊にいた人は、南方の最前線で戦い、あちこちの島に転々としていくうちに食料の無く、武器も無くなって、草を食べ、銃剣だけで戦ったそうです。
でも何より辛かった事は、日に日に少なくなる戦友との死別だったそうです。

しわの多いおじいちゃん。やさしそうな目をしたおじいちゃん。は、
「死」を覚悟し、「死」を目の当たりにして、その中で生還した強者だと思います。

僕の心に残る ある戦友会の幹事さんの話。
「一年に一度の戦友会。朝別れる時、「来年も必ず会おう!」と、皆で誓い合うので すが、年々人数が減ってます。いつかは無くなる「戦友会」。無くなった後は、永 遠に無くなってほしいものです。」

[23]くまこさんからのコメント(2002年08月07日 22時39分38秒 )
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父が、南方戦線に行っていました。
筆舌に尽くしがたい苦労をして、でも片足の太ももに鉄砲のかすり傷を残しただけで
生きて還ってきたのでしたが…
女子供に話す話す話はない、と、
文字通り「死んでも」話してくれませんでした。
父の死後、でも、そんな戦争時に詠んだ短歌をひとまとめにしたものを見つけてしまいました。
見慣れた老練な歌作と違い、
辛さの中に青春の瑞々しさが感じ取られてそれは娘にとっては衝撃でした。
発表するにはまだ、私の中で時間が要るようです。

母は、女学校生活を事情があって秋田の親元を離れ、北海道の室蘭で送りました。
戦争末期から一時期いわゆる「代用教員」というのになって近くの小学校を教えていたようです。
空襲にあったこともあり、やはり、悲惨な思い出が多いのですが
その時の教師仲間との友情は今に至ります。
そのまま正式に教師をされてた方もいますが、大抵は母のように戦争が終わって普通に結婚をして、全国に散らばり、主婦をしている人が多いのです。
うちは、母は質素倹約が身に付いていて贅沢なことをするのは見たことがないのですが、
その教師仲間との同窓会のような会にだけは、かなりの頻度で参加していました。
行くと辛い思い出は甦るのですが、
手に手をとりあって死線を乗り越えた仲間には会いたくてあいたくて、
本当にさっさと出かけていったものでした。

母は十代から、父は二十代の殆どを戦争で暗黒にいろどって過ごしてきました。
私たち娘が育つ過程で
「今時の若者は…」という台詞はそれこそ何度も聞かされてきましたが
あんまり昔は良かった、と言うのを聞いたことはありません。
戦いなど経験せず、幸せな青春を送った方がいいに決まってるという考え方が両親とも憧れとともに身に沁みているのでしょう。

いまだに、母の前では戦争の話はしません。


[24]扇乃さんからのコメント(2002年08月07日 23時38分03秒 )
本人によりコメントは削除されました。 2002年08月07日 23時39分51秒

[25]扇乃さんからのコメント(2002年08月07日 23時41分18秒 )
本人によりコメントは削除されました。 2002年08月07日 23時45分32秒

[26]扇乃さんからのコメント(2002年08月07日 23時48分59秒 )
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↑連続削除、失礼。
読み直してて言葉の誤りに気づきましたので訂正いたしました。
ゴメンナサイ。

*************

いま一度若し戦争が起こつても逃げぬと語るを繰り返し聞く

冒頭から拙作でスミマセン。
この歌は、未来倶楽部の母の日企画に投稿した私の短歌(モドキ)です。
昭和一桁生まれの母が、戦争について話をする時、決まって最後は
「わたしゃ、もし今度戦争が起こったとしても、もう逃げん」と言う言葉で結びます。

1945年6月29日未明、米軍のB29 百機余りが岡山市上空に襲来、市街地を焼き尽くし、千八百人近くが死亡、6千人以上が負傷し、10万人以上が焼きだされた岡山大空襲。
市街地に住んでいた母も、焼夷弾で燃え上がる街の中を逃げさまよったそうです。
戦火から少しでも逃げようと、後楽園に流れ込む旭川の浅瀬を必死の思いで渡っていると、炎に焼かれ水を求めて川に飛び込み、絶命した人が何人も流れてきたそうです。
背後の街は真っ赤に染まり、あれはまさに地獄絵だったと話してくれました。
そういう体験をした母の「もう逃げん」という言葉は、偽りのない心そのものでしょう。
「少女期の戦災を生き抜き、この歳になり再びあんな地獄を見るくらいなら…」と言う――。

当時10歳の母。
その孫、つまり私の娘も現在10歳です。
戦争を体験した母と、戦争を知らない世代の私に育てられた娘。
ふたりが思い描く「戦争」とは、恐らくまったく違うものでしょう。
願わくば私の娘や、その次の世代の子らも「リアルな戦争」を知らずにいて欲しい。
永遠に。

先日の広島市長の平和宣言全文に有った
「政府は(中略)明日の子どもたちのために戦争を未然に防ぐ責任を有」す、と言うのは
私たちにも係る言葉なんですよね。
そのことを肝に銘じる1日にしたいと思います。
育ててくれた親のためにも…。

[27]TAKEGONさんからのコメント(2002年08月08日 00時05分15秒 )
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>親、親戚、祖父母から聞いた 実際の戦争体験
わが家には父が書き残した「自伝(といってもたいしたことはない)」
がありまして、ネタは無いかと久々に原稿用紙を読みました。
だいたい父から直接聞いたハナシばかりですが、
読みなおしてみると あらためて運の良いオヤジだったんだなぁと感心してます。

以下、アラスジ

父は小学校のとき「満州で軍属の募集をしている 誰か行く者はいないか?」
と学校の先生に言われたそうで、家がビンボーだったこともあり、
働いて家のためになろうと立候補したそうです。

で、父を含め7人がテストを受けに行き、めでたく7人とも合格し
小学校の卒業を待ったとのこと。
しかし、土壇場になって、5人が親の反対や体調不良等でキャンセル。。
父も母親が泣いて反対してたので行くのをやめようと思ったが
そうすると、残りのもう一人もやめてしまうかもしれない。。
となれば、この町にとって非情に不名誉なことになる。。
そんなワケで、行く決心を変えなかったと綴られてます。

軍属というのは軍隊の仕事の下働きのようなものらしいですが
最初は軍隊と同じようなキビシイ教育から始まったようですよ。
満州で当時最強の(父語るには)関東軍の教育訓練が終わると
現在の北朝鮮の成興(なんて読むのだろう)に配属され
異国情緒タップリの(そう書かれてる)
この地で多感な青春時代を送ったそうな。(そう書かれてる)

で、初恋したとか、彼女(ジンジュンさんという名前らしい)
から手編みのセーターもらっただとか書かれてまして
当時としては薔薇色の生活をしてたようです。

で、そんなこんなをしているウチに正式に平壌の歩兵部隊へ入隊せよ
との通知が来てホントの兵隊になった。
そこで、他の初年兵とともに新人教育でシゴカレることになりますが
「満州でさんざん軍隊教育をあじわっていたので要領よく軍隊生活を送った」
らしいです(そう書かれている・・笑)

教育が終わると「南方へ」配属される予定で南朝鮮へ行ったのだけれど
そのころは船が満足に来なく、結局は「南朝鮮沿岸警備」になったそうです。
本土決戦になればアメリカ軍は必ずここに来るであろうと
毎日対戦車訓練をしてたとのことですが、そんな日々の中、終戦になった。

と、書きかけの自伝は終戦の日で終わってます。
軍隊生活は同世代の人の中では長い方ですが
一度もキケンな事態に遭遇することがなかった父は
やはり運が良かったんだなぁと思います。

[28]メープルシロップさんからのコメント(2002年08月08日 01時18分09秒 )
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私は大学で中国語を専攻していた関係で、
中国残留孤児のみなさんが肉親探しのために来日された際に、
聞き取り調査の会場でお茶出しをしたり、お世話をしたりする
ボランティアに参加したことがありました。

私の北京語をみなさんは聞き取ってくれるのですが、
多くは、中国の北方の農村から来ておられたので方言が混ざっており、
私のほうはみなさんの言うことをなかなか聞き取れませんでした。
祖国でもあり、異国でもある、見知らぬ祖国、日本にきて緊張しているみなさんに、
少しでもリラックスしてもらうため、私たちは言葉が通じないところは、
ほほえみあい、手を触れ合ってコミュニケーションに努めました。

服装も、言葉も、仕草も、どこから見ても中国人のように見えるけれど、
戦争さえなければ、日本人として日本で育ったはずの人たちです。
戦争さえなければ、両親から引き裂かれることもなく、
自分のアイデンティティを求めて外国までくることもなかったのです。

戦争は、こんなふうにひとりの人間の人生を大きく歪めてしまう。
そしてその傷跡は、半世紀以上を経てもなお、ずっと残り続ける。
言葉にして語ることはありませんでしたが、
彼ら、彼女たちの存在そのものが戦争の非道さを私たちに伝えていました。

昨日、広島の原爆の日のニュースを見ました。
ニュースの中で、広島で平和活動をしている被爆者の方々と、
昨年9月11日のアメリカの同時多発テロの犠牲者の遺族の方々が、
互いに共感しあい、連携しあって平和活動を行っているという報道がありました。
実際に被爆した方々、肉親や大切な人を失った方々が
「報復ではなく平和を」というときの言葉の重さ。
人はこんなふうに生きることもできるのだと、胸を打たれました。

原爆の悲惨さと世界平和を訴えることが、
ヒロシマだけではなく、日本が担っていくべき役割で、
その日本人である私も、もっと考え、もっと行動しなければならないと感じました。

[29]まめタンクさんからのコメント(2002年08月08日 05時32分24秒 )
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戦争体験談とは言えないかもしれませんが、
子供の頃、戦争について祖母に聞くと
「おじいさんには『赤紙』が遅ぉきてなぁ。すぐ南方へ連れて行かれたんじゃけど、英語が多少は出来たけぇ、戦争のひどかったトコよりだいぶ後ろの方におったお陰で命拾いしたんで。」
と祖父の体験?を教えてくれたものです。後年知った事ですが、祖母の兄弟は祖父と同じ南方戦線で戦死していたそうです。子供4人を抱えて夫の帰りを待ち、夫は帰ってきたが、兄弟を亡くしてしまった、そんな祖母の戦争についての口癖は
「今度、もし戦争が起きて『赤紙』が来ても誰も(国に)やらん!」
でした。そして、子供の僕に
「(僕が)大きゅうなって、戦争になって『赤紙』が来ても命を取ったり取られたりする戦争に簡単に行ったら、いけんで。」
と諭すように教えてくれました。子供心に戦争には簡単に参加してはいけないんだ!と強くおもったものです。祖母自身は岡山県でも県北の田舎町にいたため、子供を抱えて空襲の中を逃げ惑ったりした経験はなかったそうです。

現在、僕は鹿児島県の枕崎市に住んでいます。隣には特攻基地のあった「知覧町」があり「特攻平和記念会館」があります。そこには、特攻隊員の方が飛び立つ前にご家族に宛てた手紙が展示してあるんです。大半が家族へのお礼の手紙ですが、(当時は検閲も厳しかったでしょうから)貴重な、狂ったナショナリズムに突き動かされている国家を憂いている手紙もありました。

戦争が憎しみを生み、憎しみが新たな憎しみを生みまた戦争が起きる。たとえ有事の
際でも愛する家族を簡単に憎しみの渦中に飛び込ませてはいけない。
去年結婚して、子供はまだいませんが、子供が出来れば必ず、祖母の口癖を伝えていきたいと思っています。

[30]すもっぷ!!さんからのコメント(2002年08月08日 06時03分28秒 )
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もこさん こんにちは。今回は戦争についてということで真面目に書きます。
明日が、長崎に原爆が落ちた日ですね。こういう戦争についての話になると、ただ感情的に”悲惨だから戦争ダメ”という方もおられると思いますが、いったい全体、戦争というものはこの世からなくなるだろうかと考えたら、ぶっちゃけた話、”99.9999パーセントの確率でなくならないと思います。
考えても見て下さい。戦争というものを。戦争は一言でいえば”国家間(または地域間or国家vs地域)の喧嘩”なんです。喧嘩....皆さんの中で生まれてから今まで、喧嘩をしたことがない人はおられますか?ほとんどいないと思います。喧嘩も止めれないんじゃ、ましてや戦争なんてなくなるはずがありません!!
戦争をこの世からなくす方法、全人類が喧嘩しようとする心をなくした時、それか全人類が本心から戦争を止めることができないと気づき、戦争のもとである喧嘩をを止められない我が身の愚かさにはっきり気づいた時.....それしかないと思います。

[31]サラさんからのコメント(2002年08月08日 09時39分57秒 )
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シベリアに抑留されたおじが帰ってきた時の様は、
痩せ細った顔に、おきまりの顎髭。

そのおじのことを母親が
「ひげの周りが凍ったまま帰ってきた」
と表現します。

私自身、年端の行かない子どもの頃は
いくらなんでも顔につらら下げて戻っては来ないだろう、
何時間かかると言うのよ、、、と、クールでした。
まして、戦争の話をするのに、そんな不真面目な、、、という気持ちもありました。

勿論、実際に凍ったまま帰ってきたわけではなく、
それほど過酷な状況の中から、ようやく生還できたのだという
辛い話でした。

あまり深刻に話すのが好きじゃないのか
シベリアというと、この「顔につらら」の話が出ますし、
夏に集まった親戚の宴で、むしろ場を和ませる話となっています。


つい先日も、戦争時の食糧難の話をしたところです。
都会に住んでいた方たちの方が大変だったのではないか、
というのが一致した見解。

田や畑のある田舎は、終戦を境にその前後だけ
配給が滞り、フスマなどを食べていたようですね。
戦争に負けて、アメリカ軍が入ってきてからの方が
食料が回るようになったそうな。
身近にトラブルがなかったからこそでしょうけれど
食料のお陰か、村の中でも良好な関係だったようです。
その当時貰ったチョコレートの美味しさったらなかったそうな。

ついこないだまで、頭上のB29に向かって
本気で竹槍を突いていた女学生だったはずなのですが。

[32]ビッグホーンさんからのコメント(2002年08月08日 12時40分35秒 )
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かなりへヴィーなテーマと、皆さんの書き込みの内容。

先ずは、リクエスト
A.R.B
AFTER ’45
この曲に全てが集約されてる気がします。

[33]シアター・ブリッ。さんからのコメント(2002年08月08日 12時55分34秒 )
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もこさん、私も見ました。エス・オーさんと同じ「原爆の絵」。
もうもう、涙なくしては見られませんでした。
学校の瓦礫の下敷きになった小学生の女の子と男の子を描いた方の言葉。
「私が絵に描かなければ、この子供達はこんな悲惨な亡くなり方をしたと、
誰にも知られずに終わってしまう。
そして、これを知らせる事で子供達の弔いになるのでは。」というような事を
おっしゃってました。
絵を描いた方は皆もう70歳を過ぎた方が多く、今書き残さなければという
気持ちに突き動かされたそうです。
きっと、その想像を絶する光景を思い出すのは大変につらい作業だったと
思いますが、こうやって残してくれるからこそ、
私達戦争を知らない子供達に伝えていけるのですね。
小学生の時に「はだしのゲン」を読んだうちの子供達の感想文に
「戦争はしてはいけないと思います。」と書いてあったのを思い出しました。
私達がしなくてはならない事は「伝えて行く事」ではないでしょうか。

[34]ゲレーロさんからのコメント(2002年08月08日 13時17分41秒 )
本人によりコメントは削除されました。 2002年08月08日 13時18分47秒

[35]ゲレーロさんからのコメント(2002年08月08日 13時20分24秒 )
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戦い・・・
少なくとも自分にとっての戦いとは常に何処にでも発生するものだと思います。
仕事の中で上司と戦い、サッカーの練習でチームメイトとの戦い。
そしてサッカーの試合で相手チームと戦う・・などなど
スポーツは相手がいないと「戦う」ということが成り立たないわけですので
自然に競う相手、戦う相手に私は敬意を払っています。
多分払っているつもりなのですが・・・


戦い(戦争)で命を落とすのは嫌です。でも望まなくても相手が私や私の大切な人達の命を奪いにくるなら私は戦います。
戦争にならないように努力するのは当たり前。でもその用意と心構えは
ある程度しておくのも必要だと私は考えます。

[36]中村のけーこさんからのコメント(2002年08月08日 14時20分04秒 )
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あぁ久々にカキコします。でも、9月でもこさんが卒業だなんて・・・(反応遅いって・・)正直ショック〜〜〜ッ!でした。けど、もこさんのお声と永遠にバイバイするわけではありませんから(^^)耳ざとく見つけます、あちこちで。

戦い、いろんな戦いありましたけど、やはり自分との戦いが苦しいですね。
どーしても甘やかす方へ働きかねないですから。公募へ出品する作品など、
「ま、こんなもんだろう」こんな感じでは絶対審査に引っかかるわけでもなく、
1日置いて本当にこれでいいのか?自分が審査員でもこれを通すか?と
自問自答しながら悪戦苦闘します。って言っても、最後はどっかで妥協してしまう。
これじゃあ情けないなぁ、と反省を繰り返しつつ間違いもまた繰り返し(^^;)
なかなか成長できないまんまですが、これからも頑張っていかねば!

ただ、・・・・食に対する戦い、確実に負けてます(笑)

[37]勘九郎さんからのコメント(2002年08月08日 16時58分45秒 )
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島根県斐川町は出雲大社から東に10キロほどのところにある宍道湖に面した町です。
かつて斐伊川から分かれ、現在の出雲空港のところで宍道湖に流れ込む、新川という川がありました。江戸時代末に松江藩が住民を立ち退かせてつくった川だそうです。

私は、地元に住んでる者ではないのでよく知りませんでしたが、たまたま出雲大社に用事があり、近道と聞いて通った道沿いにあった飛行場跡地を見て、チョッと興味を持って調べてみたんです。(聞いた話じゃなくてごめんなさい)

この新川の跡地で、第2次世界大戦末の昭和20(1945)年3月から飛行場の建設工事がはじまりました。小中学生など地元の人々や兵隊、予科練学生を大量に動員して6月にはほぼ完成、6月からは海軍の基地として使われました。
現在も当時とほぼ同じ状態で残っています。

この基地が実際に使われたのは8月15日の敗戦までの2カ月間ですが、おもに特攻機「銀河」の基地となり、人間爆弾「桜花」も配備されていました。
7月28日には山陰一帯をおそう空襲があり、新川基地をはじめ玉湯町、安来市、大山口などで、多数の死傷者がでています。この時のアメリカ軍戦闘機の銃弾の跡は、今も新川を渡る山陰本線の鉄橋に残っているそうです。

私自身、まさか山陰に特攻基地があったなんて思ってもみませんでした。
跡地を散策していると、飛行場の東側に飛行帽に飛行服、首には白や赤、緑のマフラーを巻いた特攻隊の方々が整列しておられました。
皆、戦死された方々なのでしょう・・・
いつもとはチョッと違った御霊を見て、久しぶりにとても考えさせられました。
色々な思いが頭の中をぐるぐると駆け巡って、とても悲しくなりましたよ。


テーマとはかなり趣向が違いましたね、ごめんなさい。

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