以前、『モリー先生との火曜日』という本を紹介してもらおうと
もこさんに「いつ死んでもいいと思えるように生きたい」というような
内容のメールを送りました。
今日、かきこをみていたら、
>「死んでもいい。」なんていっている人は、死ぬという事に直面した事のない人のかっこつけ言葉だと思います
という言葉があって、考え込んでしまいました。
もしかして、このように考えておられる方はたくさんいるのかな、と思い、
みなさまに意見を聞かせていただきたくて、スレッドを立てました。
私は以前、ライフガードをしていました。
海水浴場での監視と救助をする仕事です。
その日、私は監視塔に上って監視をしていました。
平日ということで海水浴客は少なく、それぞれのお客さんを覚える余裕もあって、
そのなかに3人のお子さん連れのご夫婦がいたことも覚えていました。
その後、交代して私は本部に戻ったのですが、30分後、
「溺者発見、応援頼む」との無線が入りました。
私が現場に到着したとき、仲間のライフガードが溺者を岸に引き上げて、
蘇生法を始めようとしていました。溺者は、さっきのご夫婦のだんなさんでした。
私は救急車を要請し、近くにいたお客さんに子供さんたちを
本部に連れて行ってくださるようにお願いし、仲間と協力して蘇生法を始めました。
意識、呼吸、脈、ともにすでにありませんでした。
救急車が来るまでの約40分間、人工呼吸と心臓マサージを続けましたが、
助けることはできず、その方はそのまま帰らぬ人となりました。
あれから、今年で3度目の夏ですが、私はいまでも考えます。
本当はなんとか助けられたのではないのか。
あの奥さんのだんなさんを、子供さんたちのお父さんを奪ったのは私ではないのか。
私が死なせたも同然ではないのか。
その後、荒れる海に救助に入り、二重遭難で自分も溺れかけたりしました。
自分の死、他人の死と何度も向き合う毎日でした。
ライフガードをやめてからも、助けられなかった男性のことが頭から離れませんでした。
家族で元気に楽しそうに遊ぶ姿と、
たった30分後に冷たくなって横たわっていた姿。
「人はこんなに簡単に死んでしまう。30分後のことだって、先のことはわからない。
誰だってそうなんだ。私だって、30分後に死んでいたって不思議じゃない」
なにもかもが怖くなって、自分の殻にこもってしまうようになりました。
3年間、その思いが頭から離れず、その思いとどう向き合っていいのかもわからず、
その思いを誰にも言えずにいたときに『モリー先生との火曜日』を読みました。
「いずれ死ぬことを認めて、いつ死んでもいいように準備すること」という一説に、
私は3年ぶりに水面に浮かび上がって息をしたような気持ちになりました。
こんなことをしていてはいけないんだ。「いつ死んでもいい」と言えるくらい、
1日1日を精一杯生きていくしかないんだ。
と思いました。
このときから「いつ死んでもいいと言えるように生きること」が、
私の生きていくうえでの羅針盤になりました。
これは、私なりに真剣に死と向き合ったすえに、やっとたどり着いた言葉です。
こう思わなければ、とても生きていけない気がするくらいです。
でも、世の中にはいろんな考えの方がいるし、
私のような年若いチャラチャラした娘が「いつ死んでもいいように生きる」とか
言うと、生意気に聞こえて反感をもたれる方もいるのかもしれません。
こんなことは、おいそれと口に出すものではないのかな、と少し反省もしています。
みなさまはどう思われるでしょうか。
よかったら、ご意見をお聞かせください。
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